ブラッシングは局所(歯肉)だけの健康対策か
ブラッシングは、う蝕・歯周病の治療と再発予防とに有効な手段であるとの認識は定着したといえる。
しかしその理解は、中程度以上の歯周疾患においては、手術の前準備あるいは後処置としての程度のものでしかないのではなかろうか。
現状からすれば、歯周病治療を望む患者のほとんどが、初期の時期を見逃し、重症に進行したあと、歯肉膿瘍併発による不快、疼痛等の症状があって初めて自覚するのが殆どであることから、めざましい回復効果をブラッシングにだけ求めることは至難であろう。だからといって、ブラッシングの効果を、手術可能な状態にまで鎮静させる術前処置、あるいは術後処置と認識している歯科医は、未熟・拙劣なブラッシング指導の結果だけを見ているためだと断言したい。
そのために往々、ブラッシングの限界と見誤り、性急に手術処置に頼ろうとするのだろう。
そのことはまた、手術後のブラッシングについても同様で、不十分、不徹底であるゆえ,必ず再発を繰り返す。
これに反し、十全な指導によるブラッシングの効果があるならば、手術処置以上の効果が得られたになる。
あらゆる歯科治療のめざましい成果を、短期にして崩し去るか、永続させるか、そのことは患者自身の手に預ける他はない。だからこそ、なんとしてもやり抜かねばならない。実施させ続けなければ治療効果は不十分なものとなるばかりか、次第に重症に進み難症に陥り、その結果、治療は複雑となりホープレスな治療に終る。患者に、無駄な処置だったと悔ませるか、やってよかったと思わせるか、健康に向かって生きる喜びに導いてくれたと考えて貰えるのかの別れ目が、ブラッシング指導の如何にかかっている。
歯周疾患対策は、コレラ、チフスのような外因感染症対策とは異なり、また近時問題にされている常在弱毒菌による日和見感染症対策(『Opportunistic infection —現況と対策− 』上田泰,東京慈恵会医科大学,目本レグリー)とも異なる(強力な外因病原ではなく,また全身衰弱はほとんどない)。
歯周疾患の治療を必要とする人たちはまことに多く、来院患者のほとんどすべてに必要である。歯周疾患治療を求める患者はもちろんのこと、通常の歯科治療、矯正治療を求める患者にも、疼痛、不快あるいは咬合不全などのために数週間から数カ月に及ぶ不徹底なブラッシングを余儀なくされ、そして咀嚼すら十分に行われていない部分のあることは通例である。
このような状態になった人たちは、次の論文からも、歯周治療が必要であることは明らかである。
「健康な若い学生に、片側ずつ交替にブラッシングする側としない側に分け、2週間間隔で数度繰り返した結果、いずれもブラッシングしない側に歯肉炎が生じ、ブラッシングすると歯肉炎は消滅し治癒した」インディアナ大学の実験報告(Hine,M.K.)や、「歯口清掃を怠たれば歯垢は日毎に成熟し、きわめて健康な歯肉でも数日から数週間で病的な炎症状態に移行するとの報告」(Loe,H.et al. :Experimental gingivitis in man.j of Periodont.,36: 177,1965)
病因である歯垢の付着停滞を一定時間内に撹乱除去して、構成諸菌のエコロジーを乱すならば、局所の健康は回復され再発予防も可能である(しかし全身状態に注意が必要である。病弱者の回復力は弱い)。
このような歯周疾患は食生活などの急激な近代化がおもな原因で、局所的に口腔環境を劣悪化し、それが加齢と共に機能を損ない、歯牙喪失にまで進行する。「・・・成人病といわれる病気のほとんど8割ぐらいは、その人の間違った生活習慣からきているわけです。心筋硬塞でも、高血圧でも、糖尿病でも、その人あるいは家庭の悪い生活習慣から作り上げられた病気だといえる。……それで私は“習慣病”という言葉を使うことにしたのです」(日野原重明,聖路加看護大学学長,看護学雑誌,vol.45, No.2,1981,2)。
このように、間違った生活習慣を正す生活改善によって、治療・予防効果をあげうるとの理解は一般に進みつつあると思う。
一旦歯周病に罹患してしまえば、 適正なブラジシングの励行を持続したとしても、それだけでは、ブラッシングを必要としないほどの歯肉の健康保持者のような歯と歯肉の真の健康者たりうることは望めない。
しかもブラッシングだけでは,その回復効果は局所的で,全身的健康創り効果は望めない。即ち局所の健康対策としかいえないのである。なかでも進行した歯周疾患は中高年齢者が多い。それらの患者の全身状態は意識しているか、いないかに関わらず諸種の成人病有病者であるとみなすべきで、注意深く観察、分析し、見極める必要がある。
ときには内科系主治医の治療に、ブラッシング効果を上げるための食生活改善、咀嚼法、呼吸法、運動などの指導によって協力し、患者の体力を回復し、高めることができれば、歯周組織の回復は早く完成する。
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治療の際に口腔疾患と食生活の見直しの必要性を説明指導する代わりに貸し出し、読ませるために筆者が和訳したW.A.Price著『Nutrition and Physica1 Degeneration — A Comparison of Primitive and Modern Diets and Their Effect ー』(食生活と身体の退化一未開人の食事と近代食・その影響の比較研究)の506頁中159葉の挿入写真の1枚で,長い問、堅いものを精力的に噛む原地住民の歯の健全さ、近代的な商業食品が入り込んでからあとの原住民の歯列弓と精神状態をうかがわせる顔貌の変化を説明している。上の写真から、高地に住むアンデスのインディアンたちが、すばらしく発達した顎と歯列弓をもっているのがわかるだろう。
左上の男はたいへん年をとっているということだが、ラマやアルパカが群をなしている雪の巾を登っていくことができるほど元気だ。
その歯は、完璧といえる状態にある。長い間堅い物を精力的に噛んできたため、老人の歯は磨滅していた。近代的な商業食品が入り込んだため、シェラインディアンの生活は、近代化したに違いないが、他方、悲しむべき破滅を身体に与え、その破壊力はしばしば精神にまで及んだ。
左上の少年は、鼻孔が小さすぎて十分空気を吸い込めないので、もっぱら口で息をしている。
右上の少女は、あごがひどく未発達で鼻孔も萎縮してしている。
下の写真の男の子は、2人とも歯が混み合っており歯列弓がひどく狭い。また一方、歯垢が成熟停滞し、慢性辺縁性の炎症が存在するにもかかわらず、膿漏症状がなく、歯槽骨縁の消失も少なく,強固な骨植がみられる場合もある。
症例
ブラッシングが不十分であっても、食生活のあり方が歯周組織の健康をた保っている症例。30年前に小臼歯の動揺、咀嚼不全を主訴として来院。処置完了後85歳まで、1歯も欠損すること無く、歯肉状態はほとんど変化がない。
硬いものを極端に好む。歯科医療とブラッシング」歯界展望(臨時増刊号) : 第57巻 第6号・昭和56年5月より